河内木綿雑記

現在の東大阪市は、住宅と工場が密集する躍動感ある市街地の形成をなしていますが、天文12年(1544年)頃から新大和川付け替えの、宝永元年(1704年)までの160年間洪水の被害が続き、河内は水との闘いの歴史であった。

河内平野は旧大和川が南から北へ流れ、上流の大和川と石川からの土砂が堆積して川底が高くなる、また蛇行していたので流れが遅く洪水のたび洪水に悩まされていた。

洪水から人々を救うため河内国今米村(現東大阪市)の中甚兵衛が流水路を変える計画を立て築留(現柏原市)から堺の海に流すよう再三幕府に請願をし、元録16年(1703年)大和川付け替えの命が下り、翌年の宝永元年(1704年)2月15日着工、同年10月13日(240日間)竣工と約8か月の猛スピードの工事であった。途中太田(八尾市)の千両曲がりと、浅香山(堺市)の千両曲がりの2箇所の工事の難所があったようである。

大和川付け替え完成後、旧大和川跡には新田が開拓され河内木綿の栽培が始まる。以前より河内木綿を栽培していた農家も、田畑の約半数を綿畑に転用し現金収入を得ていた。

河内木綿栽培が最も盛んになる要因としては、十八世紀後期、北前船の航路が整備されると、松前から日本海をめぐり、長州下関から瀬戸内海を通り、大阪湾の港に物品の交易をもたらした。その海上輸送網の役割は大きい。

綿栽培には大量の魚肥が必要であり、鰊の油を絞った後の〆粕が木綿や菜種、藍などの肥料になった。その一大産地の蝦夷地から上方まで蝦夷地の豊富な海産物や昆布などと、鰊の〆粕の肥料を積んで、復路上り船で西日本に運び、往時の下り線に積み込む商品には、衣料品や日用品、石材など多種多様であった。特に積荷で多かったのは古着の木綿であった。吸水性に富み保温性に優れた木綿は北陸から北の地方でよく売れたようである。

換金性の高い綿花や菜種、藍などの作物の需要が広がり、河内木綿の栽培にも拍車をかけた。

    

§河内平野で収穫される綿は全国一の良い綿花であったようだ。

§風土がよい綿を作り出し、現在東大阪市日下町で栽培している

§綿花も、良質の綿が収穫できている。(ふとん店主 談)

 

平成の河内木綿

河内木綿はごくわずかに博物館や資料館等と地域のボランティアが栽培、河内木綿の歴史文化を探求する活動として平成18年4月に「河内木綿コットン・クラブ」(東大阪市)を発足し6年目を迎えています。その二年後の平成20年4月、新規に「河内木綿 はたおり工房 草香」(東大阪市)が発足、当初より河内木綿製品を試行錯誤しながらも商品化を図り河合木綿の丈夫で肌触りの良さを知っていただくことを信条として、商品開発を心がけている。

河内木綿の綿から手紡ぎの糸を作り藍染や草木染を施し機織りをして河内木綿を作り出している。糸をつむぐのは容易ではありませんが、鍛錬すると均一な糸(20番手)が紡げるようになる。河内木綿は本来、平織であり織り出すと面白いように布が出来上がる。

昨今では、河内木綿手紡ぎ糸を徳島県藍染町「藍の館」で染めて頂き、河内木綿と徳島の本藍とつながりを持つことができた。紺色に染まった河内木綿は本物が持つ独特の色艶があり、濃紺ではあるが華やかさを醸し出している。

 

東大阪市日下町の綿栽培

 綿の栽培を初め6年目になりますが、有機栽培のむずかしさと、天候に左右されることを数年ではあるが作物の生育に大きくかかわることを実感する。

綿栽培の連作は難しいとされていますが、2012年度の綿作は日下町においては同じ場所の畑を耕し5年目を迎え連作をやむなくしていますが、今年は例年より綿の実の付きがよく安堵しています。

綿の種を撒く時期は5月3日(八十八夜)に種をフラワーポットに撒く。畑に直播すると根切り虫や野鳥に双葉を食べられ全滅した年があり、それ以来、本葉が出る6月まで自宅で水遣りネットをかけ管理している。(約300株)

本葉が出て8cmから10センチぐらいになると畑に植え替える。一番肥を施す。6月上旬。梅雨時には自然の水遣りで畑へ行く回数が減る。

 7月初めごろ、二番肥を施す。このころからグングン大きく育っていく。支柱を打ち添え木をする。70センチまで伸びてくると先端の芽を摘み芯留めする。(実を大きく収穫するため)花につぼみがつき最初の開花を見て、三番肥を追肥する。

2012年の夏は、毎日のように夕方に、ゲリラ豪雨が降り綿畑にはうれしい雨であるが各地で被害が出ていたようである。

 朔の実も大きくなり収穫量も多く期待できる。

三角鍬で畝をそぎ取り雑草の生えるのを制御できたことが綿畑に活力を与えたようである。

今年の綿の実の吹くのが例年より1カ月遅れ、9月下旬から1番綿が吹きだした。9月10月と順調に収穫でき10月中旬ごろまで残暑が続き、綿の実が吹くのに十分な陽射しがありがたい夏の天候は収穫時期に差が出てきている。

 

東大阪モノづくり観光プロジェクト

 当工房が発足して間もなく修学旅行生を誘致したモノづくりの魅力を伝える「東大阪モノづくり観光活性化プロジェクト」(平成21年11月発足)の現場体験コース事業に参加している。

東大阪市の観光資源として中小企業の町をとらえ、全国から訪れる修学旅行生対象の工場見学や”モノづくり”にチャレンジできるプロジェクトは、各企業とも「新しい修学旅行のかたち」の『光』を産業観光に取り組んでいるのである。

まち工場社長の身近な苦労話や豪快な出世話など未来に躍動する若者にとって夢と希望が湧くアイデア満載のプロジェクトである。

(事務局 石切ゆめ倶楽部ホテルセイリュウ現在会員数51企業)

 

津波被災地の農地再生によせて

 平成23年、未曽有の東日本大震災があり、大変な被害と人命を失った。

現在も行方不明者が数知れない中、涙をこらえ頑張る姿がしのばれご冥福を祈るばかりです。

 河内木綿に少しばかり携わり、綿の強靭な自然の力強さを感じています。

平成23年5月21日 

岸和田市立 波切ホールで『全国コットンサミット』の第一回が開催され(全国コットンサミット・岸和田市・岸和田商工会議所・夢つむぎ会 主催)全国から綿に関わる団体の参加の多いのに驚いていました。

第一回目としてのコットンサミットは綿花栽培者が一堂に会し、現状を報告する。又、将来への道筋を共に学び、交流を深める場となった。『全国コットンサミット』開催にあたり主催者側の趣旨としては「綿花栽培の現状を広く知らせ、綿花栽培の歴史、現在、将来のモノづくりに思考を巡らせる」のが目的であった。

綿花栽培のモノづくりに寄せる全国の活動報告は繊維産業の新たな活性化を感じたと同時に、有機綿の栽培を手掛けている報告に地球環境を視野に入れた素晴らしい活動の報告であった。

 ある企業からは原料から製品まで【MADE   IN  JAPAN】体制の構築に奔走されている報告があった。その企業の報告のなかに東北大震災で被災した農家に綿の栽培を提唱することを熱く語っていた。(塩害による畑に綿を植えることで3年後には塩分を除去できる)

「第1回 全国コットンサミット」は、「東北コットンプロジェクト」の始動から支援の輪が広がっていった。東北被災地の農家を綿花栽培で支援するというこの活動は、荒浜綿畑(宮城県仙台市若林区荒浜道場)と名取綿畑(宮城県名取市)での綿花植え付けから始まりました。

津波被害を受けた水田は、塩害のため数年間稲作ができないとされ、綿花は塩分が高くても栽培できる植物であり塩を取り除く効果があるといわれている。3年後、東北の農地がよみがえり、緑豊かな田園風景が広がるのを願わずにはおられない。「東北コットンプロジェクト」は津波被害によって稲作ができなくなっている農地にコットンを植えることで、農地を再生することを目指している。

そして、東北コットンを使った新事業を創造し、安定した農産業と新たな雇用を生み出すことと継続して震災復興していくための活動です。「東北コットンプロジェクト」は多くの企業団体が参加している。

 

 (第1回 全国コットンサミットに参加して)