河内木綿と阿波の藍

三好長慶をめぐる地域の名品づくり

河内平野を大きく包み込むように聳え立つ生駒山は、唯一豊かな自然が残る大阪のシンボル的な山である。その大地の恵みを受けて生駒西麗の日下町(東大阪市)に綿畑を耕作し、先人が伝え残してきた一粒の綿の種を撒き、河内木綿の再生を目指している。無農薬の綿畑で育てた綿は匂いも少なく肌触りのも心地よく、貴重な存在だと思っています。現在では衣料のほとんどが綿製品であり暖かくて丈夫な綿は生活に欠かせない存在です。ただ、収穫量の多い米綿が主流である事も否めない中、あえて河内木綿の良さを追求したいと思っています。

 

河内木綿再生への夢と希望

 河内木綿の栽培は、5月初旬に種をまき10日ぐらいで双葉が出てくる。6月の梅雨時に本葉が出て大きくなり、夏の日差しは綿の芽を膨らませ綿の花を咲かす。花は黄色に中心部が臙肥色の種類です。開花後、朔と呼ばれる青い実ができ8月下旬から下の枝より白い綿毛がふきだす。綿は一番綿、二番綿、三番綿と収穫していく。特に二番綿の実が良く、江戸時代は買取価格がよかったようである。綿の肥料は金肥といわれるほど十分な肥料を施さなければ良い綿の実ができないといわれ、綿畑の手入れ次第で実のなる違いを実感している。

綿を収穫したのち乾燥して,綿繰り機(手回し)を使い綿と種を外す作業が待っている。綿繰りした綿は、ふとん屋さんで綿打ちしてもらい、10センチ四方にひろげた綿を棒で巻いて巻状(ジンギ)を作り、竹製紡車で糸をつむぐ、手紡ぎ糸は少し太い目の約#20番の糸、紡いだ糸を藍染や草木染に染めて機織りすると手織り「河内木綿」の出来上がりです。糸紡ぎはひたすら練習を重ね鍛錬して技術を手に入れる方法しかなく、最初は綿を引き出すのが一苦労であった。

最近では徳島県藍住町「藍の館」館長で藍師の阿部利雄氏にお願いして河内木綿の手紡ぎ糸を藍染していただいており、本藍独特の色艶のある華やかな濃紺である。

河内木綿の繊維は太くて毛足が短く、弾力性のある生地は丈夫で利便性にとみ、現在では反物を和服に仕立ててもあまり需要がなく、身近に使っていただけるグッズや、しゃれたバッグ、クッションなどを作り皆様に愛用していただいている。地域の町おこしの一環として暖簾等も手掛け、商品開発に奔走しているところである。

 

河内木綿と阿波の藍

繁栄の江戸時代

 もっとも河内木綿と阿波藍の隆盛は江戸時代にまでさかのぼり、大阪近辺で河内木綿が大量に栽培されたことと、藍染料は絹にも木綿にもよく染まったことで藍染料の需要が増えていったようである。河内木綿の大量生産につながる要因は、今から300年前に旧大和川が上流から流れ込む土砂が堆積し川底が高くなり、蛇行していたことも災いして、流れが遅く大雨のたびに川が氾濫を繰り返し洪水に悩まされていた。洪水から人々を救うため河内今米村(東大阪市)中甚兵衛が長年にわたり幕府に河内の苦境を訴え続け、流水路を変える計画を幕府に請願し築留(柏原市)から堺の海に流れを変える大工事を実現したのである。宝永元年(1704年)に幕府は約8か月の猛スピード工事を敢行し、当時では特異な早さであったようである。

新大和川を堺の海に流れを変えた後の旧大和川跡には、新田が開拓され河内木綿を植えるのに適した1063町歩もの新田が生まれた。

北の地方では綿の栽培が難しく、力強く暖かい河内木綿は買い求めてくる機運が益々高まり、生産が倍増していった。東大阪市の平野部は従来の田畑の50パーセントが綿作に切換えられた。山間部の日下町でも25パーセントが綿の栽培をしていたようである。

良質の河内木綿はとても珍重され、又、日本海側の航路を北前船が行き来したことも、河内木綿の需要に大きく拍車をかけた。

河内木綿の特産品を生産する担い手として、この地域では、地方の娘さんたちを住み込ませ働き手として雇っていたようです。

綿摘みから機織りまで手伝いその間家族同様に生活し、嫁入り前になると河内木綿の布団一式を持たせ娘さんを実家に帰らせる習慣であったようだ。綿畑には水汲みのための撥ねつるべや、足踏み水車の風景が広がり、のどかな田園風景と人々の営みが綿の栽培から見え隠れする。

 

三好長慶の描いたまちづくり

河内と阿波と勝瑞城

阿波藍と河内木綿を結ぶ接点は生駒山系の北になだらかな美しい形の飯盛山に居城を開いた三好長慶の恩恵がある。16世紀中ごろ、阿波の国(徳島県)より勢力を伸ばし、実権は将軍に代わって三好長慶が握り、実質機内地域の支配をしていた。三好氏の経済的な発展は阿波における染料の藍玉と森林資源であるといわれる。阿波と畿内を行き来して港町や文化など商人との交易を重視し、城下町をつくることにより地域の個性を発揮できる体制づくりをしたのではないか。都市共同体の自治を守り、商人の交流を自由に容認する都市の活力に繋げていった。阿波藍は、製藍技術の改良と品質向上が続けられ、藍事業を保護する施策を奨励されているようである。阿波藍の特産品として徳島を流れる吉野川も大きな要因であると思う。吉野川はよく氾濫を起こし田畑を川の水が被い大きな被害を出すこともしばしばだったようである。しかしながら川の氾濫は藍畑に肥沃な土地を与え、豊潤な土地には藍が繁茂した。阿波藍は江戸時代、阿波藩の経済を支える重要な産業であり、当時の阿波藍と河内木綿の大産業としては密接な関係であったように思う。今に伝わる「すくも」づくりに関しても天文18年(1549年)三好氏が上方から呼び寄せた青屋四郎兵衛から「すくも」づくりの製法を伝授、全国的に藍染料の産地として知られるようになった。

 

阿波藍「すくも」づくり

19代・佐藤昭人師を訪ねる

その優れた技術を要する「すくも」づくりは、幾つもの時代を超え、現在では「すくも」づくりの名工として卓越技術者・無形文化財・藍師として保護されている。徳島県板野郡上板町 佐藤昭人師19代目現在の名工を訪ねた。徳島県には5軒の藍師の家があり佐藤家は専属の阿波藍の製造所を営み製造販売に携わっている。

 阿波藍「すくも」づくりの最初の製造工程は9月の大安の日を選び「寝せ込み」の作業から始まります。藍の一番葉を入れ、一床当たり3000~3750キログラムの葉藍を積み同量の水をかけて混ぜ合わせ1メートルぐらいの高さに積み重ねてゆく。(天井まで)「すくも」製造の第1歩。

 「とおし」と呼ばれる作業工程を10月下旬から、むらなく醗酵させるため「ふるい」を用いておこなう。「寝せ込み」5日目毎に水を打ち「切り返し」をする。4回目の切り返しに2番刈りした藍葉を入れる。切り返しは全部で20回行われ「四つ熊手」で切り「はね」(木の鍬のようなもの)で形を整える。一定の温度で醗酵をうながすため「ふとん」と呼ばれるむしろを着せる。醗酵するときの独特の匂いがある。「寝床」と呼ばれる「すくも」を寝かせる製造場所を見学することができた。

 

 佐藤昭人師に「寝床」にある醗酵途中の「すくも」に手を入れさせていただくと40度以上の高温であるのがわかった。11月中旬まで切返しが、この後8回続くそうである。「ふとん」と呼ばれるむしろをかけたその上にお神酒が供えてあり神聖な阿波藍の誕生を待っているようであった。